上山博康(かみやまひろやす)は日本屈指の脳神経外科として知られています。

禎心会脳疾患研究所所長であり2012年に同研究所に設けられた「上山康弘脳神経外科塾」の総帥として若手の育成に勤めています。また旭川赤十字病院・脳神経外科顧問でもあります。

出身は北海道大学医学部で、脳血管手術や脳動脈瘤クリッピング術では日本では他に並ぶものがいないと称されるほどの技術をもつ医師であり、「匠の手をもつ医師」とも呼ばれています。手掛ける症例も年間約350例(累計20,000例)を誇ります。患者が希望するのであれば日本全国どこへでもでむいていくと自負しており、脳神経外科における世界的権威にも「自分がもし手術をうけることになったら上山博康先生に依頼したい」とまでいわしめたことがあります。

子供の頃から美術が得意で、画家、もしくは飛行機を作る技術者になることを夢見ていましたが、高校生の頃、日本にはもっと優秀な脳神経の外科医が必要だとかかれた本を読み、医師になることを決意します。もともと手先が器用だったこともあり、研修中には毎晩ネズミの血管を縫合して練習していたというエピソードが有名です。研修を終えて北海道大学に戻った時、あまり手術があたらない時期があり、その頃に手術で使う器具一式を生みだしました。この器具一式は上山式マイクロ剪刀ムラマサとよばれ、薄いハサミが特徴であり、現在も日本で一番脳外科で使用されているといいます。

かつて北海道新聞の記事で、次のようなことを語ったことがあります。それは北大で手術を次々にまかされるようになり、時期教授にちがいないと言われるようになった時のことです。個人的にも気の合う患者さんがおり、その人にある手術方法の提案をし、執り行うことになりました。しかしながら当時の教授がその方法について一部を上山の提案とは違うものにするよう指示します。医師として教授になりたい上山は疑問を抱きながらも教授の指示に従います。しかしながら手術は失敗に終わり、患者さんは亡くなってしまいます。
その後遺族に土下座してお詫びをしたという上山ですが、このことから教授に対しても反対意見を告げるようになります。出世よりも医師になりたいと思った当初の気持ちを優先し、自身ではなく患者の為になることだけを考えて治療し始めるのです。

医師として患者のために全力を尽くす上山博康は睡眠時間は1日4時間、年中休みなく手術にあたっています。
しかしながら最近では自身も高齢になってきたことから後進の指導・育成に力をいれるようにしています。これは訴訟リスクなどの観点から脳血管手術をおこなうような外科になりたいと志願する人材が減っていること、またそれにより優秀な人材の激減しており、今後脳血管手術の分野が衰退してしまうことを危惧しているからです。

近年テレビ番組といったマスコミへの出演も多く、脳血管手術の名医として一般での認知度もあがっています。